足立店の営業がノートパソコンへの情報入力をさほど苦にせず対応していた。工事担当も同様だった。それを見ながら酒井が指示を出し、店舗に情報が無い場合は他の店舗へ電話して情報を入手したりしていた。
「ゆくゆくは他の店舗に電話せずとも、検索して一発で情報が入手できるようになるんだよね」
酒井がそう言うと、営業事務の高野が喜んだ。
「それめちゃくちゃ嬉しいです、酒井さん」
営業事務が「嬉しい」と表現した意味が酒井には十分理解できていた。「あれ調べておいて!」と、営業や工事担当から過去の情報を検索するように依頼されることが少なくなく、その度にバインダーを引っ張り出して調べ物をするはめになる。これが営業事務の業務負荷を相当上げていることは疑いようのない事実であった。
「いいでしょー。高野さんもきっと楽になるよ。まったくあいつらは飲みこみが早くてありがたいよ」
「それは酒井店長、あ、ごめんなさい。酒井さんが日頃彼らの面倒を良く見てあげてるからですよ。彼らは酒井さんのこと、尊敬してますからね」
「なんだよ。いきなり」
「酒井さんが風土改革プロジェクトのメンバーに入った後、佐々岡ブロック長がお見えになったときに、うちの営業と工事担当、口を揃えて言ってましたよ」
「ん? のびのびやれていいってか?」酒井は冗談っぽく笑って見せた。
「違いますよ。『俺たちは毎日みっちり鍛えてもらってるんです。絶対に数字は落としませんよ。俺たちだけでもやれるってことを酒井店長に認めて貰うんだ』って」
「あいつら・・・。生意気言って。まだまだ俺がクローズを手伝ってやらないと駄目じゃないか・・・。そう言うのは本人の前で言わないと伝わらないぞ」
酒井は目頭が熱くなって、高野に背を向けた。
会社やプロジェクトの決定事項だからといって、目的や意義を理解したからといって、それでも人はロボットのように動くわけではない。誰が指示を出すかが肝心なのである。もちろんそれには日頃の人間関係の強さが問われる。
変化の機運が高まったとしても、最終的に嫌いな上司や尊敬には遠く及ばない上司から「あれをやれ」、「これをやれと」と言われれば、そこで必ずトーンダウンする。そう言う意味でモデル店として足立店を選択したのは絶対的に正解だった。
その日、加瀬はキャリーケースを転がしながら東京都立大学が正面向こうに見える坂道を歩いていた。一人暮らしで済んでいるマンションは京王線の南大沢駅から徒歩10分の場所にある。数年前まで駅前は、スーパーと時々プロレスのイベントが開かれる黄色いドーム屋根つきのステージがある、取り立てて特徴の無い町だと思っていた。それが今はアウトレットパークができてすっかり変わった。以前、平日の午前中には大学生がちょっと行き交うだけの人通りだったのに、今では子連れのお母さんや若い女性、それに老夫婦が増えた。
ここから目的地の高崎までは、新宿を経由して上野から新幹線に乗り換えて2時間半かかる。いつもは果物とヨーグルトにコーヒーを口にしてから出勤するのだが、今日は準備に慌てて朝食を抜いた。出張の準備もその日の朝にしなければならいほどに遅くまでの残業が続いている。
<新幹線の中で仮眠とれるな。それにしても腹減った。高崎に着いたら『だるま弁当』食べよう>
新幹線の中で加瀬は結局景色を眺めていた。考え癖が抜けないのだ。いざ寝ようにも頭の中に何かが浮かんでくる。「これもやらなきゃ、あれもやらなきゃならない」次から次へと自分のするべきことが浮かび、まるで自分で出したクイズ問題に早押しで解答するように、これからやることの確認をしていた。
熊谷駅を過ぎる頃、出題すべき問題は一応無くなった。背の高い建物が減って田んぼと雑草地があたり一帯に広がってきた頃に、ようやく気持ちも落ち着いて眠気に誘われた。せっかくの景色もどんより曇っていては、目を閉じる他なかった。
「だるま弁当900円です。ありがとうございまーす」
駅に着くや否や、加瀬は売店で赤いプラスチック容器の弁当を3つ購入した。駅の待合室でだるまの顔を外すと、迷うことなくこんにゃくから手を付けた。
<10年ぶりかな。昔と値段もネタも変わってないなー。まずはこんにゃくからいっちゃうんだよね。栗とうずらの卵、どっちを最後にするか悩むんだよ>
脳がまた動き出したが、それも束の間の楽しみだった。
そこからタクシーで高崎店に移動し、入り口を開けて元気に挨拶をした。
「こんにちは。本社の加瀬です。今日から1週間お世話になります。よろしくお願いしまーす!」
「こんにちは! 来たね、加瀬さん! 野畑本部長から聞いているよ。水戸さんからも昨日連絡があったよ。『本社のエースが行くのでよろしくね』って」
高崎店の店長であり、関東ブロック長である佐々岡はいつも元気がいい。というより声が大きい。年末の納会で野次を飛ばして笑いを取るのも彼だ。
「あ、足立の酒井店長からも連絡ありました。水戸さんと同じこと言ってました。『本社の意気のいいのがお邪魔するので揉んでやってくれ』って」今度は営業事務の森中が言った。
「森中さん、それ同じじゃないですよ。『揉んでやってくれ』って、酒井さん、何を期待してるんだろ?」
「はっはっはー。加瀬さん、これから君がやろうとしていることはわかってるつもりだが、まあお手柔らかに頼むよ!」
「ええ、こちらこそ。あ、そうだ。昼食まだじゃないかなと思って、お土産です。『だるま弁当』」
「お、さすが本社のエース。気が利くねー。営業どうだい? いい成績残せるかもよ。うちの渡辺さんと勝負してみるか?」
<よし、つかみはOKのようだ>
佐々岡と森中はだるま弁当を食べ、加瀬は森中にいれてもらったお茶を飲みながら雑談を交わし、改めて今回の訪問の趣旨を説明した。事前にパイロット店舗として足立店でノートパソコンを導入し、営業と工事担当に持たせて歩いてみたところ、なんとか受け入れられそうな感触をつかめたことを説明した。
「足立はみんな若いメンバーだからな。うちは60オーバーばっかりだぞ。大丈夫かぁ?」
すぐ隣に加瀬が座っているのに、佐々岡の声のトーンは変わらない。高崎店のお客様は耳が遠いのだろうか? はっきり聞き取れることは間違いないなく、お年寄りにはいいのかもしれない。
「僕も営業一緒に回らせてください。どういうタイミングで入力すればいいのか、実際確かめてみたいんですよ」
「お、言ったな。本社の連中は紙だけで人を動かそうとするから嫌いなんだ。君の姿勢はいいね。気に入った。一緒に営業してみたいなんて言った奴は、本社の人間では君で『二人目』だ。俺はそういう奴が好きなんだな」
「誰ですか、もう一人は?」初めて聞いた話に加瀬は興味が湧いた。
「知らないのか? その人は1週間くらい俺と一緒に客先を回ったんだ。もちろん工事にも立ち会った。んー、まあ今は言わないでおこうか。知りたければいずれわかるだろう」
段ボールを開梱してパソコンのセットアップを終えるといつの間にか18時を過ぎていた。外はまだ明るいが徐々に営業と工事担当が店舗に戻ってきて、加瀬が一人ひとりに挨拶をしながら明日からの依頼事項を伝えていた。終礼では佐々岡から説明があり、「協力するように」と伝えてもらった。
興味のある人間が加瀬にそばに寄ってきて、帰宅する前に「どうするの?」「へえ、これ持ち歩くんだ? じじいたちには重いな」「俺パソコン詳しくないけど大丈夫か?」と次々と質問してくれた。
それに丁寧にひとつずつ回答をしている横で、「お疲れ様ねー」と営業の渡辺が帰って行った。
<ありゃ、渡辺さん帰っちゃったな。彼がキーマンなのに・・・>
次の日の午前中は50代後半の営業と客先を一緒に回った。移動の合間にパソコンを開くのだが、操作はぎこちなくなかなか要領を得ない。それでも加瀬は焦らずに丁寧に教えた。途中「あんたが書いてみてくれ」と言われたので、そうすることもあった。
「何度でもそばでやってみせてあげるんだよ。加瀬さんがね、自分の子供に何かを伝えようと思ったらどうするか、イライラしそうになる前にそう思い返してみて」
出張の前夜、それだけ水戸に言われていた。
そうやって三日が経過した。
夕方外から戻ってくる営業や工事担当に、佐々岡が一言声をかけるついでに、「パソコンどう?」と聞いてくれたのだが、その答えを聞くたびに加瀬の疲れが増した。
「んー、よくわからない。加瀬さんには悪いけど、営業しづらいな」
「ごめん、加瀬さん。忙しくて入力できなかったよ」
期待していた応えはひとつもなかった。
加瀬はこのプロジェクトで初めて、押しつぶされそうなプレッシャーに襲われた。その日の夜、疲れと重圧が同時に加瀬を襲い、宿泊先のホテルで高熱にうなされることとなった。それがまた焦りを生み、鏡に映る自分から余裕の表情が消えていた。
<さてどうする、加瀬成道? 今この状況で何ができるんだ?>
なんだが頭がボーっとして、きっと脳もオーバーヒートしそうな状況なのだ。早く寝て熱を下げないとならないと思いつつも、それでも「どうすれば?」を加瀬は考え続けた。時間は既に深夜2時を回っていた。
翌朝なんとか熱は下がったが、出勤前に鏡の前で気合いを入れ直そうと両手で自分の頬を数回強くたたいた。あまりの痛さになんだか笑えてきた。頬が赤くなったまま、コーヒーと前日コンビニで買った果物とヨーグルトを口にした。
その日も営業に同行して客先を回った。その合間にパソコンを開いては、「ここはこうする」「さっき聞いた情報をここに入力する」と、何度も何度も一生懸命にじいさんたちに伝えた。
だが、教えられるほうは加瀬の一生懸命さを理解しつつも、慣れない作業に負荷を感じていた。佐々岡に「これは大変です」と報告する者もいた。
翌日、それまで様子を黙って見ていた佐々岡が加瀬に声をかけた。
「加瀬さん、代替案は無いのかな? やっぱりさ、いきなりじいさんたちにパソコン持ち歩いて入力しろっていうのは厳しいかもよ。少なくともすぐには無理だ」
「そうかもしれませんね・・・」小さな声でそう言うと、じっとパソコンを見詰めた。
<時間は無い。ここでいったん帰って案を検討したとしても、決して机上で解決できる問題じゃない。何か手を考えなければ・・・>
翌日もその次の日も、営業と工事担当と現場を回った。
渡辺と営業を同行してわかったことだが、その引き出しの多さは圧倒的だった。これからドアを叩こうとする家の前でいったん立ち止まり、あたりを2、3分見回すのだ。犬がいればその話題をするし、盆栽があればその知識を披露する。とにかく気づいたことを口にして、愛想のある笑いで、相手との距離感を縮めていく感じだ。もともと多趣味なのか、年の功なのか、それとも才能なのか、きっとそのバランスがうまいところで均衡しているのだろうと加瀬は思った。
お客様宅のドアをノックした後の渡辺と、今この車の中にいる渡辺は全くの別人とも思えた。
「渡辺さん、ひとつ聞いてよろしいですか?」
「変な質問はよしてくれよ」
「営業って好きですか? 変な質問だったらごめんなさい。先に謝ります」
まるで愛想のある営業マンが隣にいるとは思えないほど、車の中は緊張の空気に包まれた気がした。このまま渡辺が答えてくれなかったらやりづらい一日になる、そう思った。
「好きも嫌いもないよ。これが私の仕事なんだよ。もうこの年になると体も口も勝手に動く。惰性とは言わんが習慣だよ」
「僕はまだ考えなければ動けません。鍛錬が足りないですね」
「もうこの業界で40年も営業をやっているんだ。当然と言えば当然だ」
「すごいですね、僕が生まれる前からだ。じゃあ太陽リフォームの前からですね」
「うん、そう」
質問に一言で返されると、ぎこちない会話になりそうだった。なんとかスムーズに会話を続けようと、加瀬の頭はフル回転で次の質問を準備した。
「渡辺さん、お客様と会話が途切れないんですけど、話題が豊富ですよね。ひょっとしてものすごく多趣味なんですか? 夕方もすぐに帰られるし」
渡辺が終礼の後も度々お客様宅に伺っていることを、そのとき加瀬は知らなかった。特に古い人間は「夜討ち朝駆け」を当たり前のように実行している。最近は夕方の突然の訪問を嫌うお客様が増えたせいもあって、大抵はアポを取っての訪問になっているが、渡辺は誰より長く現場で足を動かしていた。訪問される側も、特に高齢者になると「本気で商売する気があるなら夜にまた来い」と思う方も少なくないようだ。
それでも毎日夜遅くまで現場を回れるほど、渡辺は若くはなかった。最近はすぐに家に帰ることも増えた。
「早く帰ったときは、チェスをやっているんだ」
「へえ、チェスですか。チェスってあのチェスですか? 将棋ではなくて?」
「ああ、将棋も好きだが、ここんとこはずっとチェスだね。まあ身近に相手があんまりいなくて残念なんだがね」
「今日、夕方仕事が終わったら付き合ってもらえませんか? 僕もウィークリーマンションに籠りっぱなしでやること無いんですよ」
「悪いね、俺は酒はやらないんだ」
「あ、違います。店舗でいいですよ。チェスの相手を紹介します」
「え?」
ちょっとだけ驚いた様子でこちらを向いた渡辺の顔は、先程とは違って幾分かゆるんだ表情に見えた。
その日の夕方19時を回って、渡辺がデスクに座っている様子に店舗のほぼ全員が驚いた。さらに目を見開いたのは、渡辺がパソコンの前に座ってキーボードをいじっているのである。一番驚いたのは佐々岡だった。
「どうしたんだい、渡辺さん! 加瀬さんに催眠術でもかけられたんかいな!?」
「いやいや、そうじゃないんですよ。佐々岡店長。催眠ではないんですがね、加瀬さんにそそのかされましてね」
渡辺がじっと見つめる画面には、白と茶色の8×8マスのボードに茶色と白の駒が映っていた。もちろんチェスである。ヤフーのオンラインゲームだ。
「ゲームなんてここでするな!」そう言うのが店長としては相応しいのかもしれないが、佐々岡のその思いは一瞬で「驚き」に置き換えられた。今度は、渡辺にパソコンへの興味を持たせた加瀬にだ。
<さすが水戸さんがエースって言うだけあるな。本社にはこんな奴がいるもんだ>
「渡辺さん、これね。今はコンピューターが相手なんですけど、実は人間とも勝負できるんですよ」
「そうなの? それはすごいね。パソコンってのはそんなこともできるんだ」
「ええ、今はインターネット上でいろいろな人が繋がれる時代なんです。今、渡辺さんがこのパソコンを使ってインターネット上のヤフーのゲームを利用しているんですけど、別の人も同じようにこのゲームを使えるのはイメージできますよね?」
「まあ、そうじゃろうな。技術的なことは全然わからんけど、家で息子がインターネットを使ってるのと一緒でしょ?」
「そうそう。その通りです。そこは詳しく知る必要は無いんですけど・・・」
「けど?」渡辺は先を聞きたそうに、マウスをいじる手を止めて加瀬を見た。
「人と勝負するには、チャットができたほうがいいですよ」
「その『チャット』っていうのは何? 家で息子がたまに口にしているね」
「インターネット上で行う文字を使った会話ですよ」
先程まで店長の机で営業の報告を受けていた佐々岡が、いつのまにか渡辺の後ろに立っていた。
「ふむふむ。で、それはどうすればいいでしょう?」
渡辺はすっかりパソコンに興味を示していた。
「そのキーボードで言いたいことを入力するんです、初めは一文字ずつ確認しながら打てばいいんですよ。そしたら相手と会話ができます。『一局お願いします』とかね」
「おいおい、加瀬さん。あんまり私のことを馬鹿にしないでくださいよ。それくらいわかりますわ。実はこれでも、家ではちょっとくらいは触ったことあるんです」
そう言って渡辺の顔から笑みがこぼれ出した。つられて加瀬も笑った。それを見て加瀬の背中をバシバシ叩きながら佐々岡も笑い出して、二人の声は掻き消された。佐々岡は笑い声もでかいということがわかった。
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