「佐倉さん、いよいよ来週ですね」
「そうね。忙しかったけどなんだか充実してたよね」
「また、すぐに来週から忙しくなりますよ。そういえば、来週から来る事務局の人、水戸さんの知り合いの丸山さんって人の会社から来てもらう方向で調整済みですって。水戸さんがさっき言ってました。いきなり来てうまく流れに乗れますかね?」
「そうね。水戸さん、丸山さんって方を大分信頼していたわよね。その人が連れてくるんだから大丈夫なんじゃないの・・・。それはそうと加瀬」
「はい」
「あんた、今週末の予定は?」
「そうですね・・・、キックオフに向けて十分な休息でも取ろうかな」
「それだけ?」
「はあ、他は特に無いですけど」
「ちょっと土曜日付き合わない?」
「えっ? まだ何かやること残ってましたか? あれ、なんだろう? 体制図の事務局の部分は名前がまだわからないから空白でいいし、サブメンバーへの案内は終わったし・・・」
「ううん、違うの。リフレッシュしに行くわよ」
首を横に振って、携帯の画面を加瀬に見せた。そこには「ほったらかし温泉」と書いてあった。
「温泉ですか? どこですか、その『ほったらかし』って?」
「富士山の近く」
「いいですねー。ん? ところで、もしかしてこれデートですか!?」
「嫌ならいいわよ、他の人誘うから」
「あ、いや、そんな。嫌なわけないじゃないですか! いきなり誘われたんでびっくりしただけです」
「じゃあ決まりね。加瀬、バイク乗ってたよね?」
「はい。あ、たしか佐倉さんもバイク乗りでしたよね。以前聞いたことがあります」
「まあね。じゃあ土曜日の朝にここに集合ね」
ほんの数分のうちにデートの約束が決まり、「ほったらかし温泉」のホームページと八王子インター周辺の地図が印刷された紙を渡された。地図には集合時間と赤ペンでマルがしてあった。インターに近いコンビニのようだ。
土曜日の朝9時、八王子インターの入口が向こうに見えるコンビニの駐車場で、加瀬はバイクの傍らに立って缶コーヒーを飲んでいた。エンジンに残るほのかな熱が足に伝わってくる他、ツーリング用に着込んではいるが、隙間から体に触れる全ての空気が冷たい。
「寒い。マジで寒い・・・」
<佐倉さんと温泉なんて嬉しいけど、2月は無いな・・・>
これまで、仕事帰りに飲みに行ったことが数度ある程度で、休日にプライベートで会うなんてことは無かった。休日に会社のメンバーと顔を合わせるとすればトリニティのメンバーくらいだった。だが今日は野球ではない。
4年前になる。本社の中にひときわ目につく女性がいた。仕事をしているその女性をいつも目で追うようになり、「佐倉」という名前だと知り、その仕事ぶりも凄いのだと耳にした。なぜだかかっこよく見えた。加瀬が入社した当時からの憧れの存在であり、その仕事に対する姿勢から学ぶことが何度もあった。反面どんなプライベートを過ごしているのか全然イメージできなかった。飲んだ席の会話でそれを質問してものらりくらりとかわされていたからだ。しかし今日はその佐倉と二人で温泉である。
こんなことが突然やってくるものだ、人生何が起こるかわからない。何はともあれ、週明けのプロジェクトキックオフとは違う期待感を感じていた。
「ドッドッドッ、ドッドッドッ、ドドドン、ドドドン・・・」
コーヒーが飲み終わる頃、スピードを緩めながら白いハーレーがコンビニの駐車場に入ってきた。
<お、ハーレーかっこいいな。女の人だ>
ヘルメットの黄色いシールド越しにそれが佐倉だとわかると、加瀬は目を丸くした。
「佐倉さん、ハーレーですか! かっこいい!!」
その声が聞こえたのか、佐倉が加瀬に向かって右手を挙げ、加瀬のバイクの横につけると、Vツインエンジンの音が止まった。
「ドルルンッ、ドルルンッ」
「おはようー。少し待たせちゃったね、ごめん。道が混んでたのよ」
「おはようございます。ハーレーですか、佐倉さん!」
「そうよ、いいでしょ。言ってなかったっけ?」
そう言ってヘルメットを取ると、長くて少し茶色い髪がふわっと揺れた。
「おお、もの凄くかっこいいですよ。みんな知ってるんですか?」
「知らないと思うよ。プライベートのことあまり人に話さないもの」
加瀬の中で、佐倉のかっこいいメーターが振り切った。身近にいるのにその姿はドラマか映画のシーンのようにも思えた。
「加瀬のドラッグスターもいいじゃない。98年くらいのモデルでしょ?」
「そうです、詳しいですね。6年前だから僕が大学のときに買いました。それから乗ってます。というか、これじゃ佐倉さんについていけないかも」
「大丈夫よ、風が冷たいからそんなに早く走れないわ」
「ははは、そうですね。今から温泉が楽しみですよ」
「そうね、じゃあ、一応ルート確認しておく?」
そう言ってハーレーからさっと降りてバッグの中から地図を出した。寒いので談合坂のサービスエリアで一度休憩してから、勝沼インターチェンジで降りることとした。休憩を入れても2時間もあれば目的地に到着する。帰りは山梨名産のほうとうを食べて帰ろうということになった。
「OK? さっそく出発するわよ。晴れてよかったね」
「そうですね、晴れてると温泉から富士山見えるみたいですよ。うわ~、楽しみだな」
そうして、澄み切った冷気の中を二人で進んだ。先を進む佐倉の背中が距離の割にはなぜか大きく見え、加瀬はその背中を追った。
途中、談合坂で長めに休憩したのもあって出発から1時間半経過して勝沼インターチェンジを下りた。山梨の市街地を少し過ぎると、後はちょっとだけ山を登る感じになる。やはり大型バイクとそうでないバイクの差は坂道にでる。低速でマフラーが唸りつつ何度もギアチェンジをする加瀬の傍ら、佐倉のハーレーは登り道でも平地と変わらない様子だった。
<俺もいつかハーレー乗ってやる>
そう思いながら、自分の貯金の額を思い出した。
「全然足りないな、あはは」
「ん、何か言った? 加・・・」
信号で横並びに止まる佐倉がこちらを向いて何か言った。しかしドッドッドという腹に心地よく響くマフラーの音で、それはほとんど聞こえない。
「何ですか!?」
「青っ、よそ見しないで!」
スタートダッシュも全然違う。数秒で一気に離される。佐倉のハーレーはどんどん先を行った。追いかけるように後を続くと、まもなくして山道になり、舗装も無くなり景色が開けてきた。
「着いたよー」
砂利の駐車場には数台のバイク、それに10台は無いだろうが車もある。
「結構空いてそうですね。もしかして穴場なんですか?」
「そんなことないと思うよ。こんな季節にだからね、わざわざ遠くからは来ないんじゃない?」
「そうですよね、顔が固まってます。うまく喋れません・・・」
「半ヘルなんか使うからよ。あんた鼻水出てる」
佐倉がくれたティッシュで勢いよく鼻をかんだ。
「ああ、ありがとうございます。なんかかっこわるいですね、僕」
「ははは、あんた係長のくせにだらしないわね」鼻をかむ加瀬を見て意地悪そうに笑った。
「今は係長って呼ばないでくださいよ。寒い寒い・・・」
「それもそうね。行きましょう。あっ、加瀬。どっちにする?」
「何がです?」
「ここね、『こっちの湯』と『あっちの湯』の2つのお風呂があるの。こっちの湯は富士山が正面に見えて、あっちの湯は広いのが特徴」
「おお、じゃあ富士山を正面に見たいので、こっちの湯で!」
「はぁー、あったけぇー」
やっとお湯に浸かれた。芯まで冷え切った体が徐々に表面から温まっていく。加瀬は数人もいない「こっちの湯」の湯船で雲の無い空を見上げた。
<こういうときってどこに焦点が合ってるんだろう>
そう思って視線を下にずらすと富士山が見えた。銭湯の富士山もいいけどこれは本物だ。なんて贅沢な温泉なんだと思いながら、タオルを乗っけた頭ひとつ湯船から出して浸かり続けた。2時間はちょっと長いよねと、二人は1時間半後に外で待ち合わせをした。
その間、石段の上に立ち全身に太陽の光を浴びては風が体温を奪い、浸かって温めてはまた風にあたり、何度も繰り返しているうちに段々と内からポカポカする感じになってきた。後から入ってきた人は先に出て行った。せっかくこんないい所に来たのに勿体ないな。贅沢はちゃんと味わなきゃ。加瀬はそう思いながら1時間半たっぷり堪能した。
新年あけてから2カ月間、ぶっ通しでひとつのことに集中して取り組んできたせいもあって、寝ても覚めても頭の中はプロジェクトのことで一杯だった。なんだか久々に脳みそがリフレッシュできたかな、そう思える時間だった。
<それにしても佐倉さん、なぜここに僕を誘ったんだろう?>
その疑問と同時に、頭の中に裸の佐倉が登場した。モデルのように背の高くてスタイルのいい、それでいてちょっとセクシーに湯につかる姿だ。
<んー、混浴だったら最高なのにな・・・。やばい、もうちょっと温まろう>
「佐倉さん、最高でしたよ。すっごく温まりましたね」
「でしょ、いい所なんだよー、ここ。実は2回目なんだ」
「へえ、1回目はいつに?」
「太陽リフォームに入社する前よ」
「へえ、じゃあ6年くらい前ですね、そのときもハーレーで?」
「うん、そうね・・・」
一瞬遠くを見た佐倉の顔から笑みが無くなった気がした。何か言わないと、と思うと同時に佐倉が話題を変えた。
「せっかく温まったのにここで話してたら冷えちゃうよ。なんか食べようよ。お腹すいちゃった」
「そっ、そうですね、談合坂で何も食べなかったですもんね、僕もお腹すいちゃいました、そこに何か売ってますよ」
「あ、ここでしっかり食べちゃう? ほうとうも食べたいな私」
「そうでしたね、せっかく山梨にきたんだから、ほうとうは食べたいですね。でもちょっと小腹が空いたな」
「じゃあ、あそこの温玉あげでも食べようか? 温泉卵だよ」
「あ、いいですねー。佐倉さん・・・、これデートみたいですね」
「さ、温玉あげー、温玉あげー」
加瀬の前をさっと通り過ぎた佐倉から、風呂上りのいい匂いと香水の残り香が同時にした。
「じゃあ、行こうか」
「そうですね、ちょっと食べたら逆にさらにお腹すいてる感じになっちゃいましたよ」
「えっとね、今から行く場所は初めて行くとこなんだけどね、ここから10分もかからない所にあるみたいだから、そこまで直行で行くわよ」
「オッケーでーす」
山道を下って市街地に入る前にそこはあった。エンジンを止めるとパチパチと音を立てるその横で、加瀬は自分がヘルメットを外す前に佐倉のほうをみた。まだ乾ききっていない髪をヘルメットからファサッと落とすその仕草を見るのは、今日4回目だ。加瀬にはそのシーンが凄く記憶に焼きついた。
店の中に入り各々のほうとうを注文すると、どちらかが話し出さなければ何か気まずい沈黙が続くと思われた。話し出したのは加瀬だ。
「さっきの話ですけど・・・、前に1回ってやつ。聞くの止めます。その変わり・・・」
「その変わり?」沈黙を避けたかった佐倉もこぼれるように言葉を出した。
「僕は温泉ですっきりしました。佐倉さんも話したいことを話してすっきりしてください」
「え?」
「ただ温泉付き合えってやっぱり変じゃないですか。僕もまあ、空気は読めないほうでは無いので。最近、佐倉さんがたまに何か言葉を飲み込んでいるなっていうのは気づいてましたよ」
そう言われた一瞬、佐倉の加瀬を見る目が揺れた。
「昔のことは僕には何にもしてあげられませんが、今だったらちょっとは力になれるかもしれないですよ。プロジェクトのことだったら尚更です、言ってください」
加瀬がゆっくりとお茶を置くと、「コン」と鳴った。
<木と焼き物が当たるとこんな音がするのね>
なぜ今そんなことを思ったのか佐倉は自分でも理解できなかった。
「ありがとう。・・・そうなの、聞いてほしいことがあったの」
窓の外に顔を向けたまま佐倉はゆっくり話し始めた。
入社以来人一倍頑張ったこと。辛いことがあったこと。理不尽なこともあったこと。花が必要と言われて何度も宴席に付き合わされたこと。セクハラもあったこと。だからといってそれでも負けずに精一杯気を張っていたこと。自分が盾にならなければ後輩の女の子たちもきっと同じ目に合うと思い、誰かが変えていかなければならないと思ったこと。そしてずっと我慢を続けたこと。何年も。それでも気づけば出世していくのは結局、男。そういう男に限って上司の前でゴマするだけ、無理な指示を「はい、やります」と簡単に引き受けて、嫌な仕事を部下に押し付ける。誰かがやらなければと思って、自分がそれをやってきたこと。
加瀬は黙って聞いていた。
ちょうど一呼吸ついたところでほうとうが運ばれてきたが、二人とも手をつけなかった。
「私はこのプロジェクトが最後の希望だと思ってるの。だから絶対に成功させたい」
本当はほんの数秒の沈黙だった。何を言ってあげるべきか、考えた挙句出てきた言葉に加瀬は自分の未熟さに情けなくなった。
「食べましょう。ほうとう冷めちゃいますよ。ねっ」
「そうね、おいしそう。いただきまーす」
二人はしばらく黙々と食べ続けた。「ふぅー、ふぅー」という音だけが聞こえた。
「水戸さんも佐倉さんの思いに気づいていると思いますよ」
<なんでここで水戸さんの名前を出すんだ、俺!>
加瀬は自分の不甲斐なさにちょっと腹がたった。ここでかっこいいところを見せなきゃと思い、気のきいたことを話そうと考えると口が勝手にしゃべりだす。
「そうかな。水戸さん、一度帰りが一緒になったんだけど、聞いてくれそうになかったよ」
「そうなんですか。でも、水戸さん絶対気づいていると思いますよ。そういえば、実行施策の評価軸に、『タスクリーダーの思い』って後から入れたの覚えてますか?」
「ええ、もちろん」
「佐倉さんのちょっと切羽詰まった顔を見て、そのタイミングで水戸さんがそう言ってくれたんだと思うんですけど、違うのかな? 僕にはそう見えましたけど」
そう言われて佐倉はたくさん行ってきたミーティングの中でのあるひとつの会話を思い出した。加瀬の言う通りかもしれない。「⑪職種ごとの能力基準の作成、目標管理制度導入及び徹底」の実行施策が外れなかったのも、評価項目の見直しで選別に残ったからだ。
「そうかもね」
「そうですよ。ちゃんとプロジェクトマネージャーは見てくれていますよ」
<あちゃー、他人を褒めてどうするんだ。僕がもっとかっこいいこと言わなきゃ>
「そうね。ありがとう」
「聞くだけ聞いておいて、僕にできることはすぐには無いかもしれません。ごめんなさい」
「いいの。ただ聞いてくれればそれでいいの、すっきりしたよ。ありがとう」
「ええ、聞くことぐらいなら」
「加瀬。・・・ひとつだけ、お願いしていい?」
「何でしょう。僕にできることであれば」
そう言ったものの、毎日バリバリ仕事をこなし、休日はハーレーを乗りこなしてしまうような強い女性が悩むその問題を、自分なんかが解決できるのか? そう思うと加瀬は自信を持てなかった。
「昔ね。私が小さい頃、家をリフォームして私の家族が明るくなったのを覚えてるの。お母さんが台所で楽しそうに料理をしてくれるの。おばあちゃんも料理をする回数が増えてなんだが元気になったの。私それを見て、家の中を明るくできるリフォームって凄いなって思った。だからこの会社で、お客様の家族が幸せになれるリフォームを実現したいなって思ってるの」
「いいと思います。その思い。素晴らしいです」
「でもね。会社には、正直嫌いな人がいる。お客様のことなんか少しも考えていない人もいる。身近にもいるわ。その人たちにも今回のプロジェクトで変わってほしいと思うけど、それは強制するものじゃない。私は私のできることをやるだけ。だから・・・、加瀬。あんたはいい上司になって。女の子も普通に頑張れるチーム、余計な心配しないで頑張ったら頑張った分だけちゃんと評価される組織を作ってほしいの」
加瀬を見る佐倉の目は、仕事をしているときに見せる強いそれではなかった。きっと複雑な思いが詰まっているのであろう目をじっと見て、加瀬は返事をした。
「はい」
「あなたの部下に、そういう女の子がいたら絶対に応援してあげてね」
その思いの重さを噛みしめる間、加瀬は瞬きせずに佐倉を見つめた。
「はい!」
「絶対によ。約束して」
佐倉が左手の小指を差し出した。指きりげんまんの歌を唱えることはしなかったが、しっかりと約束を交わした。
湯が肩の荷を軽くした、しかし約束の重さが心に乗っかった。その重さに耐えられるだけの強さを持とうと、加瀬はそう心に決めた。
「約束します」
力強くはないが軽くもない、落ち着いたその声を聞くと、佐倉の優しい目が数秒の間、加瀬を映した。
「加瀬、今日はあんたを誘ってよかった。ありがとうね」
「こちらこそ。なんか初めはデートだと思って正直浮かれてたんですけど・・・。佐倉さんのこと知れて良かったです。誘って頂いてありがとうございます」
お腹と思いが一杯になって、二人はバイクに跨った。勝沼インターチェンジに入ると、佐倉のハーレーが先を走った。距離が遠くなると佐倉の背中が小さく見えた。二人の距離だけのせいなのかそれはわからなかったけれども、加瀬の心には朝とは違った気持ちが芽生えていた。
帰りは待ち合わせたコンビニで別れることとなった。楽しかったねと一言二言交わした後、バイクに跨ろうとする佐倉を呼びとめて言った。
「佐倉さん。僕は佐倉さんを応援します」
「ありがとう。月曜日からまたがんばろうね」
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